名前かんがえちゅう

私の私による私のためのブログ。

世の中の大半は、いい/わるいの二元論ではなく、過剰/過不足なし/不足の三元論(と呼ぶかわからないもの)である

最近転職活動をして、思うこと。

 

「いい会社に入りたい。」

これは多くの人が思うことだろう。(そうでもない?)

少なくとも、私はいつも思っていた。

離職率が低くて。社員の満足度が高くて。休みがきちんととれて。コンプライアンス意識が高くて。社員の人間関係も良好で。

そんな「いい会社」に入りたい。

ホワイト企業に入りたい」と言い換えてもいいだろう。

なぜなら、いろんな意見はあるが、実際、「ホワイト」と「ブラック」は存在する。

どこを境界線にするかという議論は意味があるが、「会社はそれぞれでブラックは個人の定義による」という意見はただの思考停止ではない。

 

実際に私は、先日の「ホワイトな」企業(離職率低い、満足高い、休みきちんととれる、コンプライアンス意識良好、社員仲良好)と、

そうでない、いわゆる「ブラック」な企業(離職率高くて1年で3割やめる、みんな会社に不満を持ってて愚痴と悪口だらけ・メンタル病んでるひともちらほら、時期によって休日出勤・残業地獄で残業代込み、コンプライアンス意識激低で管理職のひとがハッタリで仕事してる、社員の人間関係最悪)の

両方経験した。

 

もしかつて暗黒大陸・アフリカから奴隷船でアメリカに連れられてプランテーションでぶっ倒れるまで働かされた経験のある人がそれを聞けば、

「人権認められてるじゃん!どっちもホワイトだろ!!!」というかもしれない。

親が石油王で親の会社に役職だけ入れて実質の労働時間0でありながら遊んで暮らせる金をもらえる人がいれば

「奴隷かよ!どっちもブラックだろ!!」というかもしれない。

人によっては「それでも仕事内容が後者がいいから後者のほうがいいわ」という人もいるかもしれないし、

「前者は楽すぎてぬるすぎて箱の中の鳥って感じでムリ」という人もいるかもしれない。年収安かったし。

でも、1000人にきいて「この二つのうちどっちがホワイトだと思いますか」というアンケートをとれば、ほとんど全員が前者を指すだろう。

そう、「濃淡」はあるのだ。

 

ちょっと脱線した。

そんでもって。

でも上記の判断では「ホワイト」「ブラック」、つまり「いい」「わるい」の二種類しかない、ということになる。

 

でも。

しかし、最近思う。

なんでも「自分に合うかどうか」が大切で、過ぎたるはなお及ばざるがごとし、なのだ。

 

たとえばある会社。

誰もが知る「一流企業」、リーディングカンパニー。

会社のサービスレベルが高く、コンプライアンス意識高い。

社員の能力も高く、業績もよい。

年収高くて福利厚生ばっちり。

「誰もが入りたい企業」として、あるメディアでは「人気ランキングNo.1」などと発表する。

そしてたくさんの就活生が押し寄せる。

 

しかし、どうだろうか?

それって「誰もが入りたい」のだろうか?

 

もちろんそんなことはない、ある人には合うが、ある人には合わないはずだ。

たとえば、同じ業界希望であっても、「やることでガチガチきまってるのはきゅうくつ。柔軟な仕事したい」と思っている人はもっと柔軟性の高い中小企業が合うかもしれない。

人によっては、周りの能力においつかず、仕事が難しく感じるかもしれない。

 

そう、「自分に適した選択」をするのが大切なのだ。

 

つまり、ついつい人は、

年収が高い/低い

人間関係がいい/悪い

業績がいい/悪い

会社のレベルが高い/低い

などと、二元論で判断しがちであるが、

「自分にとって過不足がないか?」という視点で選ぶことが大切なのである。

「過不足」というのは上下を考えた概念である。

 

場合によっては、右左のように、「並列の概念から自分に合うものを選択する」ということももちろん大切である。

例えば、りんごか、みかんか。

この場合は好きなほうを選択するであろう。りんごを選んだほうが勝ち、みかんをえらんだほうが負け。

しかし、

高くておいしいりんごか、安くてまあまあのりんご。

これは、「高くておいしいりんご」を選んだひとが「優」で、「安くてまあまあのりんご」を選んだ人が「劣」なのだろうか。

そんなこたーない。

りんご食べたいけど、ぶっちゃけ高いもの味の違いはわかんないし、

趣味のゲームにお金つぎ込みたい。

そういう人にとっては、「安くてまあまあのりんご」の選択が最良なのである。

つまり、「いい」「悪い」という価値は、まやかしのことがあるのである。

 

これ、当たり前のように見えて、人は結構こういう判断をしている。

「あの人は出世しててすごい」

「あの人は偏差値の高い大学にいったからすごい」

「あの人は年収1億円でいいなあ。おれもそうなりたい」

確かに、「誰にでもできるわけではない、困難でかつ人の役に立つ責任のあること」は称賛に価するし、「すごいこと」である。

でも、

「出世することはいいことだ」

「偏差値が高いことはいいことだ」?

「年収が高いことはいいことだ」?

それって「誰のために」いいのだろうか?

一般的には「すごいといわれる」ことかもしれないが、自分もそうなりたいだろうか?

そうなったら幸せになれるだろうか?

 

出世すると、責任が重くなって仕事がきついかもしれない。

偏差値高い大学では、勉強が難しくてついていけないかもしれない。

年収が高すぎて、お金の使い方がおかしくなって身を滅ぼすかもしれない。

その「過剰による不幸」は、

出世しなさ過ぎて、自分のやりたい責任のあるしごとができてない。

偏差値が低すぎて、授業がつまんなくてものたりない。

年収が低すぎて、買いたいモノが買えない。

この「不足による不幸」と、

絶対値としては同じではないだろうか?

そのような不幸が起こる可能性も、あまり変わらないのではないだろうか?

 

それより、

自分のレベルに合った役職。

自分のレベルにあった大学。

自分の身の丈に合った年収。

それのほうが、幸せじゃなかろうか?

 

もちろん、仕事が学校で在れば、

「自分のレベルよりちょっと上」に取り組んだりそんな環境にいることによって、

自分の力が引き上げられることはある。

だから、「ちょっと上を目指す」というのは、成長のために大切だ。

でも、「上であればあるほどいい」というわけではないのだ。

 

頭整理しながら書いたので、ざっと書き。

自戒も込めて。

そういう風に物事を見ていこう。決意。